1992年沖縄県浦添市に生まれる。父は宮古生まれではないが、祖父祖母が宮古出身で、母も中学卒業までは宮古島で育った宮古一家。幼い頃、従姉の弾く三線姿に憧れて三線と戯れる。小学3年生の時、伯父(母の兄)に手を引かれて、連れて行かれたところが、宮古民謡界の巨匠、国吉源次による、宮古民謡研究所であった。
国吉源次(1930年生まれ)師といえば、1960年代、当時ほとんど知られていなかった宮古民謡の存在を、沖縄全島へ知らしめた歌手といえる。歌手になるために宮古島から出てきて、様々な職業に従事する傍ら、宮古民謡の普及発展に大いに貢献した、名実共に宮古島を代表する歌い手である。
松原忠之は民謡研究所に通うのが楽しく、学校の宿題はしなくても、三線の稽古は日々欠かさなかった。母はそんな息子を応援しようと、励ましながら送り迎えた。通い始めて1年経った頃には、研究所の大人クラスにも顔を出し、毎日毎日、雨の日も嵐の日も、研究所へ通った。そして集団巻踊「クイチャー」が弾けた小学5年の頃には、国吉源次師の傍らには、いつも松原忠之の姿があった。源次師は何かイベントがあれば忠之を舞台に上げて伴奏させ、伴唱させた。忠之が15歳の時、父の仕事(鳶職)が独立した関係で、父の仕事を手伝うためにその頃から現場に出る。学校と仕事と三線を両立させるのに必死の10代後半を過ごす。
その後、ヒップホップ、ラップに興味も持ち、一時、宮古民謡から離れる。
そんな中で、日々の生活から生まれたヒップホップ、ラップの歌詞と、宮古民謡との同一性(日々の生活から生まれて来たという)を感じ、改めて宮古民謡を見つめ直す。
「ヒップホップ、ラップと宮古民謡の立ち位置は同じだ」と感じ入り、27歳になった頃から、国吉源次師に対する思いを胸に、宮古民謡を伝えるべく、ライブ活動を精力的に展開するようになる。
2021年6月、ファーストアルバムをリリースし、以後も歌える場所があれば積極的に宮古民謡を歌い続けている。